2004年Baja1000 エンセナダtoラパス 参戦記
参加リポートBy 405x 北海道出身 村田 竜志時は80年代半ば、世の中がバブルで勢いがあった頃、オフロードバイ専門誌も複数創刊されるようになっていった。そんな中、僕はオフロードバイクを知り、エンデューロと出会った。
テレビ、ビデオや雑誌で見た、パリダカ、ISDE、そしてBAJA1000という夢が無意識のうちに心の中に芽生えていた。
それからレースを10数年続けていくうちに、出場するレースも固定してきて、いつしか惰性でバイクに乗るようになってしまっていた。
そしてここ何年かは、熱も冷めて、徐々にレースから遠ざかり始めていた。
何かの折にふれ、身体的に衰えてゆく自分を感じる事によって、なんとなくレース生活の終わりというものを感じ始めていた。
やめる頃合を意識する事によって、そこまでは頑張ってみようという気持ちになっていった。
ちょうどその頃、『村田さん、BAJAに出ませんか?今年は1000マイルですよ。サポートは僕がバッチリやりますから。』と友人から誘われた。出場を決心した。
春からトレーニングを開始して、11月の本番に備えはじめたところ、その友人が急にサポートへ行けなくなった。
これから、3ヶ月後に10数日間も一緒にアメリカに行ってくれる人を探せるだろうか。
地元の友人にしても、バイク関係の知人にしてもみな社会人なので、なかなか色よい返事がもらえない。
そんな中、僕がバックパッカーだった頃からの古い友人に思い当たった。その2人は、まだ現役の旅人なので時間はとれそうだし。
僕自身、食べ物と飲み物を運んでもらう事だけしか期待していなかったので、サポートがバイクやレースに関して全くの素人でも何の問題もないと思っていたのだ。
実際にも、エルクルセロで装着するHIDダブルライトと食料を運んでもらっただけでも、非常に助かった。
そして、3つあるピット地点に知った顔が待っていてくれているだけで、ずいぶん精神的なささえになっていたと思う。
レースはエンセナダの街外れを7時位にスタート。
数日前にプレランをしたコースだったので、抑えながらもとばす所はとばして快調に走っていたが、1ヵ所目の給油ポイントの2マイル手前でいきなりエンジンがストップしてしまった。
マシンを路肩に寄せプラグの火花などを調べていると、ピックアップに乗った地元の若者2人が近づいてきて、給油ピットまでバイクを牽引してくれると言う。
バイクを車で引っ張られる怖さは充分承知していたが、ピットまで行けばメカでもいるかと思い、左フロントフォークに紐を縛られて進みだした。
斜めに傾きながら引っ張ってもらい、どうにかピットにたどり着いた。
ピットに到着すると、ワァ〜ッと5・6人の契約したピットクルーに囲まれる。エンジンが途中で止まってしまったことを説明したら、大勢の中からエンジンの事を知っていそうな男が現れた。エンジンが止まった経緯やプラグの状態などを話したところ、その男は頼もしげに大きくうなずいた。
しばらくマシンを見回すと、おもむろにハンドル中央部にあるステダンの調整つまみをぐるぐる廻しはじめたではないか。
『やめてくれ〜、ストップ!!』
そのピットにはメカがわかる人など誰もいなかった。でも何かをしたくて、いくつもの手が触ってくる。親切心からやってくれているのだろうけれど・・・。
早くここから出たい一心から、みんなを制止してキックを踏みおろしてみると、何故かエンジンが息をふきかえしてブロロンブロロン。走り出したが、また給油ピット数マイル手前でエンジンがストップしてしまった。
1度目のエンストの原因としてガス欠の可能性も疑っていたので、今回は燃料コックをリザーブを残していた。そして、予想どおりリザーブに切り替えたら、エンジンはすぐかかった。ガソリンの減り方が異様に早くて、ガス欠になるのだ。でもなぜガスの減り方が早いのか、トラブルの原因はわからないままだ。
とりあえず走り出して、一番近くにあった4輪のピットでガソリンをわけて貰った。
ここで頭の上で豆電球がぴかっと光った。『あれこれ解らないガス欠の原因をかんがえるより、コックをONの状態で行けるところまで行く。そして、リザーブに切り替えたら、ガソリンを恵んでくれる所を探しながら走るんだ。 ヨッシャ〜っ!』 2時間後、僕は上弦の月の下、遥か山の上に瞬く微かな光を目指して、薄暗い山道をメットを抱えてとぼとぼと歩いていた。
戻り道は、ガソリン入りのジョッキを抱えて1時間・・・。
結局、ガス欠の原因は、キャブのフロートの不調だったと思われる。
しかし最後には、表彰式でマルコム・スミスにたてを貰ったら、すべて忘れてハッピーハッピー。
腹に沁み込む幸せのソッパデマリスコス。
村田竜志
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